解説
聖武天皇が統治した8世紀前半は、天然痘の大流行による人口激減や、相次ぐ飢饉、さらには政権内部の対立による藤原広嗣の乱など、国家の存亡に関わる危機が連続した時代でした。天皇はこれらの災厄を自らの不徳によるものと考え、仏教の加護によって国を守る「鎮護国家」の思想に救いを求めました。741年には全国に国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、743年にはその総本山となる東大寺に巨大な大仏を造る命令を出しました。
この大仏造営は当時の国力を結集した巨大事業であり、当初は弾圧されていたものの民衆から絶大な支持を得ていた僧・行基を起用することで、延べ260万人ともいわれる人々の協力を取り付けました。また、経済面では、重税に苦しむ農民が土地を捨てて逃亡し、公地公民制が機能不全に陥っていました。これに対し、743年に「墾田永年私財法」を制定し、新しく開墾した土地を永久に私有することを認めました。これにより開墾は一時的に促進されましたが、一方で有力な貴族や寺院が広大な土地を囲い込むようになり、後の荘園の発生へとつながる歴史的な転換点となりました。
| 項目 |
三世一身の法 (723年) |
墾田永年私財法 (743年) |
| 内容 |
3代または本人1代の私有を認める |
永久に私有を認める |
| 目的 |
開墾の意欲を高め、土地不足を解消する |
農民の逃亡を防ぎ、開墾をさらに促進する |
| 結果 |
期限が来ると国に返却するため意欲が低下 |
貴族や寺院による大規模な私有地(荘園)が拡大 |
コラム
聖武天皇の時代は、遣唐使を通じて唐や西アジアの国際的な文化が流入し、「天平文化」と呼ばれる華やかな文化が花開きました。天皇の遺品などを収めた東大寺の正倉院には、シルクロードを経由して伝わったペルシャ製のガラス器や楽器などが今も大切に保管されており、「シルクロードの終着点」とも称されます。
これらの宝物を守っているのが「校倉造」という建築様式です。釘を使わずに三角形の木材を組み上げるこの構造は、高床式で湿気を防ぐとともに、木材の伸縮によって内部の湿度を一定に保つ機能があると考えられてきました。また、平城京の地図において左京と右京が左右逆に配置されているのは、地図上の視点ではなく、天皇の住まい(平城宮)から南を見た際(天皇主観)の左右で定義されているためです。