解説
1858年の日米修好通商条約締結により貿易が本格化すると、生糸は横浜港からの輸出額の約8割を占める最大の品目となりました。当初の主な輸出先はイギリスでしたが、明治時代以降は急速に工業化が進むアメリカが最大の顧客となりました。
政府は「富国強兵」を掲げ、外貨獲得のために生糸の増産と品質向上を国家戦略として推進しました。その象徴が1872年に設立された官営模範工場の富岡製糸場です。ここではフランスの技術を導入して生産の機械化を図り、その技術を全国に普及させることで、日本の生糸を国際市場で通用するブランドへと成長させました。
| 項目 |
江戸時代以前 |
幕末・明治以降 |
| 貿易の方向 |
輸入(白糸など) |
輸出(日本最大の輸出品) |
| 主な相手国 |
中国(宋・元・明・清) |
イギリス・アメリカ |
| 経済的役割 |
高級衣料の原料確保 |
近代化のための外貨獲得 |
コラム
この飛躍的な発展を現場で支えたのは、主に農家出身の「工女」と呼ばれた女子労働者たちでした。彼女たちは低賃金かつ1日15時間前後に及ぶ過酷な長時間労働に従事しており、近代日本の発展はこうした人々の多大な犠牲の上に成り立っていました。
1929年に発生した世界恐慌は、生糸貿易に壊滅的な打撃を与えました。主要な輸出先であったアメリカの需要が激減したことで生糸価格が暴落し、養蚕を現金収入の頼りとしていた農村は「農村恐慌」と呼ばれる深刻な経済破綻に陥りました。この社会不安が、軍部による強硬路線を支持する土壌となったことは、歴史上の重要な転換点です。