幕末において最大の貿易額を記録した港であり、特にイギリスとの取り引きが中心であった。1858年の日米修好通商条約などの安政の五カ国条約に基づき、1859年に長崎や函館とともに開港された。当初、幕府は東海道の宿場町である神奈川を避けるため、当時辺境の漁村であった横浜を急造して開港地に指定した経緯がある。
解説
横浜は開港後、最大の輸出商品である生糸の産地である信州や上州とのアクセスが良いことから、瞬く間に日本最大の貿易拠点となった。取引相手国としては、産業革命を背景に安価な綿製品を輸出しようとするイギリスが圧倒的な存在感を示した。この貿易の進展は、国内の生糸不足による物価高騰を招き、さらに安価な外国産綿織物の流入によって国内の綿織物業が打撃を受けるなど、日本経済に大きな混乱をもたらした。
また、当時の日本では金と銀の交換比率が諸外国と大きく異なっていたため、大量の金貨が国外へ流出する事態となった。幕府はこれに対処するために万延小判を鋳造したが、これがさらなる貨幣価値の下落と激しいインフレーションを引き起こした。こうした経済的困窮は、人々の生活を圧迫し、幕府への不満を高める要因となった。
コラム
貿易開始による生活苦や社会的な混乱を背景に、人々の間では「尊王攘夷」の思想が広まるとともに、一種の現実逃避や世直しへの期待として「ええじゃないか」といった集団乱舞が流行した。また、物価高騰に耐えかねた民衆による打ちこわしも頻発し、幕末の社会不安は極限に達した。横浜はこうした激動の時代の窓口となり、西洋文化が流入する玄関口としての役割も果たしていくこととなった。