1841年から1843年にかけて、老中の水野忠邦が中心となって主導した江戸幕府最後の大規模な政治改革。享保・寛政の改革と並ぶ幕府三大改革の一つであり、天保の飢饉や大塩平八郎の乱による国内の混乱、およびアヘン戦争という国際的危機を背景に、幕府権威の回復と財政再建を目指したが、極端な統制が社会の反発を招き、短期間で失敗に終わった。
解説
大御所・徳川家斉の死後、実権を握った水野忠邦は、緩んだ幕政を正すべく厳しい倹約令や風紀の取り締まりを断行した。経済政策では、物価高騰の原因が商人による流通の独占にあると考え、幕府公認の営業組織であった「株仲間」の解散を命じた。しかし、これがかえって流通の混乱と景気の停滞を招き、物価抑制の効果は上がらなかった。また、荒廃した農村の再建を図るため、江戸に流入した百姓を強制的に帰村させる「人返しの法」を施行し、労働力の確保と年貢収入の安定を狙った。
改革の最終局面で出された「上知令(上地令)」は、江戸・大坂周辺の要地を幕府直轄地へ組み入れ、支配力を強化しようとするものであったが、大名や旗本から猛烈な抵抗を受け、撤回に追い込まれた。この失策の責任を問われる形で水野は失脚し、改革はわずか2年余りで挫折した。当時の統計では百姓一揆や打ちこわしの発生件数がピークに達しており、幕府の統治能力に対する社会的な不信感が極限まで高まっていたことが伺える。
コラム
対外政策においては、清がアヘン戦争でイギリスに敗北した事実を重く受け止め、従来の強硬な「異国船打払令」を緩和した。遭難した外国船に燃料や食料を供与する「薪水給与令」を出すことで、諸外国との不要な衝突を回避しようとする柔軟な姿勢も見せていた。しかし、この改革の失敗は幕府の衰退を決定づけ、後の薩摩藩や長州藩による藩政改革の成功と相まって、倒幕への大きな流れを生む要因となった。