- 日米和親条約
- 1854年に江戸幕府とアメリカのペリーの間で締結され、日本の鎖国体制を終結させた最初の近代的条約
- 伊豆の下田と蝦夷地の箱館(函館)の2港を開港し、アメリカ船への燃料や食料の供給を認めた
- 漂流民の保護や、アメリカに対して一方的に有利な条件を与える「最恵国待遇」を定めた
- この条約ではまだ正式な貿易(通商)は認められておらず、補給と救護が主な目的であった
解説
1853年、アメリカのペリーが4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀に来航し、開国を求める大統領の親書を提出しました。翌1854年、再び来航したペリーの武力的な圧力を前に、幕府はついに開国を決断し、日米和親条約を締結しました。
この条約の最大の特徴は、200年以上続いた「鎖国」が終わったことです。しかし、この段階ではあくまで「薪水給与」、つまり船の燃料や水の補給を目的としたものであり、商品の売り買いを行う「通商」は許可されていませんでした。また、日本が他国と有利な条約を結んだ際にアメリカにも同じ条件を適用する「最恵国待遇」を一方的に認めるなど、不平等な側面も持っていました。
| 項目 |
日米和親条約(1854年) |
日米修好通商条約(1858年) |
| 主な目的 |
補給と漂流民の保護 |
本格的な貿易(通商)の開始 |
| 開港地 |
下田・箱館 |
神奈川・長崎・新潟・兵庫など |
| 不平等な内容 |
一方的な最恵国待遇 |
領事裁判権の承認・関税自主権の欠如 |
コラム
アメリカが日本に開国を迫った背景には、当時の産業に欠かせなかった「鯨油」を確保するための捕鯨船の寄港地が必要だったことや、中国との貿易ルートを確立するための石炭補給拠点が必要だったという世界情勢があります。
幕府はペリーの再来航に備え、江戸の防衛のために品川沖に「台場」と呼ばれる砲台を急ピッチで建設しました。現在、東京の観光地として知られる「お台場」という地名は、この時に作られた砲台跡に由来しています。