- 1927年(昭和2年)に、日米の親善を目的として行われた人形を通じた民間交流のこと。
- アメリカの宣教師ギューリックが提唱し、日本の実業家・渋沢栄一らが協力して「青い目の人形」が日本へ贈られた。
- 日本からはその返礼として、精巧な日本人形(答礼人形)がアメリカへ送られ、子供たちの友情の証とされた。
解説
1920年代、アメリカでは排日移民法が制定されるなど、日本に対する感情が急速に悪化していました。この状況を危惧した宣教師シドニー・ギューリックは、将来を担う子供たちの間で友情を育むべきだと考え、全米の市民から約1万2700体もの「青い目の人形」を集めて日本に贈りました。
日本側では、かつて岩倉使節団に同行した経験を持ち、近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一が中心となって受け入れ体制を整えました。人形たちは全国の幼稚園や小学校に配られ、各地で盛大な歓迎式典が開かれました。これに対し、日本からも「ミス日本」などの名前がついた58体の美しい日本人形が「答礼人形」としてアメリカへ送られ、全米各地で展覧会が開かれるなど大きな反響を呼びました。
コラム
この交流の背景には、ペリー来航以来の長い日米関係の歴史があります。1854年の日米和親条約により下田・函館が開港し、アメリカ船への石炭や水、食料の供給が始まって以来、両国は交流を深めてきました。新渡戸稲造が「太平洋の橋になりたい」と願ったように、民間レベルでの平和への努力が続けられていたのです。
しかし、その後の第二次世界大戦中、アメリカから来た人形たちは「敵国の人形」として多くが処分される悲劇に見舞われました。戦後、学校の屋根裏などに隠し通された人形が次々と発見され、現在では平和の尊さを教える貴重な歴史資料として大切に保存されています。