10世紀から14世紀末にかけて朝鮮半島を統一していた王朝です。13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受けてその服属国となり、元による二度の日本侵攻(元寇)の際には、造船や兵員、兵糧の提供を強制されるなど、日本とモンゴルの戦いに深く巻き込まれました。
解説
高麗は、もともと大陸の勢力と複雑な外交・貿易を続けていましたが、13世紀にフビライ・ハン率いるモンゴル軍の猛攻を受けます。約30年にわたる抵抗を続けましたが、最終的に降伏して元の服属国となりました。
その後、元が東アジアの支配を強める中で、日本への出兵が計画されます。高麗は日本侵攻の拠点とされ、一回目の侵攻(文永の役)では約900隻もの軍船を建造させられるなど、多大な軍事的・経済的負担を強いられました。元寇の際には、元軍とともに日本へ攻め込み、集団戦法や火薬兵器「てつはう」を用いて鎌倉武士を苦しめました。
日本側から見ると、元寇は「蒙古・高麗の賊」による未曾有の危機であり、防衛には成功したものの、自国領土を守る戦いであったため恩賞として与える土地が確保できませんでした。このことが恩賞不足に対する御家人の不満を招き、結果として鎌倉幕府の衰退を招く決定的な要因となりました。
コラム
鎌倉時代の日本側の史料では、元の軍勢と高麗の軍勢をあわせて「蒙古・高麗」と併記されることが多く、対外的な脅威として一体視されていました。また、元寇の激戦地となった対馬や壱岐では、高麗軍による激しい攻撃が記録されています。
一方で、元に服属する以前の高麗は、日本との間で活発な貿易や仏教文化の交流を行っており、東アジアの文化形成において重要な役割を果たしていました。