慶長の役

一般小学生

まとめ

小学生のみなさんへ

1597年(ねん)に、豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)がふたたび朝(ちょう)鮮(せん)へ兵(へい)を送(おく)った二度目(にどめ)の戦(たたか)いのことです。一回目(いっかいめ)の戦(たたか)い(文禄(ぶんろく)の役(えき))のあと、明(みん)という国(くに)との仲直(なかなお)りの話(はな)し合(あ)いがうまくいかなかったため、秀(ひで)吉(よし)はもう一度(いちど)14万(まん)人(にん)もの大軍(たいぐん)を動(うご)かしました。

朝(ちょう)鮮(せん)の海軍(かいぐん)を率(ひき)いた李(り)舜(しゅん)臣(しん)という将軍(しょうぐん)や、明(みん)の応援(おうえん)による強(つよ)い抵抗(ていこう)にあい、日本(にっぽん)の軍(ぐん)はなかなか攻(せ)めることができず苦戦(くせん)しました。1598年(ねん)に秀(ひで)吉(よし)が病気(びょうき)で亡(な)くなると、日本(にっぽん)の軍(ぐん)はすべて引(ひ)き揚(あ)げることになり、この戦(たたか)いは終(お)わりました。

ルラスタコラム

この戦(たたか)いのとき、日本(にっぽん)の武士(ぶし)たちは朝(ちょう)鮮(せん)から焼(や)き物(もの)づくりの技術(ぎじゅつ)を持(も)った職人(しょくにん)さんたちを連(つ)れて帰(かえ)りました。これがきっかけで、佐賀県(さがけん)の有(あり)田(た)焼(やき)などの有名(ゆうめい)な焼(や)き物(もの)が日本(にっぽん)で作(つく)られるようになったといわれています。

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