幕末から明治初期にかけて活躍した政治家・軍人です。薩摩藩の指導者として長州藩との間に薩長同盟を成立させ、戊辰戦争では勝海舟との会談を通じて江戸城無血開城を実現するなど、明治維新の達成に決定的な役割を果たしました。維新後は「維新の三傑」の一人として新政府の基盤を築きましたが、朝鮮への使節派遣を巡る「征韓論」で大久保利通らと対立して下野。1877年、不平士族に担がれて日本最後の士族反乱である西南戦争を指揮しましたが、敗れて鹿児島の城山で自刃しました。
解説
西郷隆盛は、薩摩藩の中級武士から島津斉彬に見出されて頭角を現しました。一時は流刑に処されるなど波乱の半生を送りましたが、復帰後は坂本龍馬の仲介によって敵対していた長州藩と手を結び、倒幕の流れを決定づけました。戊辰戦争の際には、幕府側の代表であった勝海舟と交渉を行い、江戸の町を戦火から救う江戸城無血開城を成し遂げるなど、平和裏かつ迅速な政権移行に大きく貢献しました。
明治維新後の新政府では参議として廃藩置県などの重要政策を推進しました。しかし、岩倉使節団の欧米視察中に、武力を用いて朝鮮に開国を迫る「征韓論」を強く主張したことで、帰国した大久保利通や岩倉具視ら内政重視派と激しく対立することになります。この「明治六年の政変」によって政府を去った西郷は鹿児島へ帰り、私学校を設立して若者の教育にあたりました。しかし、地租改正や徴兵令といった近代化政策によって特権を奪われた士族たちの不満は限界に達しており、彼らに担ぎ上げられる形で1877年に西南戦争が勃発。近代的な軍隊を持つ政府軍の前に敗北し、武士の時代の終焉を象徴する最後を遂げました。
コラム
西郷の敗死は、日本国内における武力による反乱の時代が終わったことを意味しました。これ以降、政府に対する批判や改革の要求は、言論によって国会の開設を求める「自由民権運動」へと引き継がれていくことになります。
また、西郷は「敬天愛人」を座右の銘とし、無欲で情に厚い人柄から多くの人々に慕われました。西南戦争によって一度は逆賊とされましたが、後に名誉が回復され、今日でも幕末・維新期における最も人気のある人物の一人として語り継がれています。