江戸の湯島聖堂に置かれ、幕臣たちが朱子学(儒学の一派)の講義を受けた幕府直轄の教育機関です。正式名称を「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)」といい、江戸幕府における最高学府として機能しました。
解説
幕府の学問所の歴史は、江戸初期に林羅山が上野忍ヶ岡に開いた私塾にまで遡ります。5代将軍徳川綱吉の代に現在の湯島へと移され、孔子を祀る「湯島聖堂」が建立されました。大きな転換点となったのは、老中・松平定信が進めた「寛政の改革」です。定信は、幕府の権威回復と役人の能力向上を目指し、1790年に「寛政異学の禁」を発布しました。これにより、聖堂での朱子学以外の講義を禁じ、1797年には林家の私塾的な性格を完全に廃して、幕府が直接管理する「昌平坂学問所」として整備しました。
学問所では、幕臣だけでなく各藩から選抜された藩士も学ぶことが認められました。ここでは主に朱子学が教えられましたが、これは「上下の秩序」を重んじるその教えが、幕藩体制を維持する統治理念として極めて都合が良かったためです。幕末には、時代の変化に合わせて洋学の研究や翻訳を行う機関も付設されるなど、日本の近代化へ向けた知的な基盤を担いました。
コラム
江戸時代の教育体制は身分制に深く関わっていました。武士が学問所や各藩の「藩校」で統治に必要な教養を磨く一方で、庶民は「寺子屋」で読み・書き・そろばんといった実用的な知識を学びました。江戸後期の日本は、商業の発展に伴う実務教育の普及により、世界的に見ても驚異的に高い識字率を誇っていました。こうした教育への熱心さが、明治維新後の急速な発展を支える大きな原動力となりました。