13世紀の元寇(モンゴル帝国の襲来)において、元軍が採用した組織的な戦闘態勢。一対一の名乗り合いによる戦いを伝統としていた日本の武士に対し、ドラや太鼓の合図で集団が一斉に動き、包囲や組織的な連携によって攻撃を行う戦術を指す。
解説
鎌倉時代中期、元(モンゴル帝国)による二度にわたる襲来、すなわち「元寇」という対外危機に際して、元軍は圧倒的な組織力を見せつけた。当時の日本の武士は、戦場で自身の功績を証明するために「一騎打ち」という一対一の形式を基本としていた。しかし、元軍は軍鼓の合図とともに軍集団が一体となって攻める「集団戦法」を駆使した。さらに、火薬を用いた兵器「てつはう」や毒矢などを併用することで、個別の名乗り合いを待たずに組織的に武士を包囲し、大いに苦しめた。
この戦法による衝撃は、単なる軍事的な敗北感にとどまらなかった。日本の武士は防衛のために多大な犠牲を払ったが、元寇は外国からの防衛戦であったため、戦後に分配できる新たな領地が存在しなかった。北条泰時が制定した「御成敗式目」によって国内の秩序は保たれていたものの、防衛戦における恩賞不足は御家人の深刻な困窮を招いた。幕府は債務を免除する「徳政令」を発令して救済を図ったが、結果として経済を混乱させ、鎌倉幕府が衰退する決定的な要因となった。
コラム
元軍の集団戦法の様子は、当時の武士・竹崎季長が自身の武功を記録させた『蒙古襲来絵詞』に詳しく描かれている。そこには、軽装ながら機動力に優れた元軍が、盾を並べて陣形を組み、組織的に矢を放つ姿が記録されている。一方の日本側は、当初こそ集団戦法に翻弄されたものの、後に石塁(元寇防塁)を築くなどの対策を講じ、地形を活かした戦い方へと適応していったことが知られている。