竹崎季長(たけざきすえなが)は、鎌倉時代中期の肥後国(現在の熊本県)の御家人であり、二度にわたる元寇での自らの軍功を記録し、正当な恩賞を得るための証拠資料として「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」を制作させた人物です。
解説
竹崎季長は、1274年の文永の役において、赤坂の戦いで敵軍に一番乗りで突撃する「先駆け」の功績を挙げました。しかし、当時は恩賞を決定するための証人が不在であったため、功績が認められず恩賞を得ることができませんでした。季長はこれに納得せず、自らの正当な権利を主張するために九州から鎌倉まで直接赴き、幕府の恩賞奉行である安達泰盛に直談判を行うという異例の行動に出ます。この粘り強い交渉の結果、彼は海東郷の地頭職を勝ち取ることができました。
その後、1281年の弘安の役でも活躍した季長は、自身の活躍を後世に残すために「蒙古襲来絵詞」を描かせました。この絵巻物には、元軍の火薬兵器「てつはう」や集団戦法、さらには文永の役の反省から博多湾沿岸に築かれた「石築地(元寇防塁)」が詳細に描かれています。特に、防塁が描かれているかどうかは、その場面がどちらの役(文永か弘安か)を指しているかを判断する重要な歴史的指標となっています。
コラム
元寇における防衛成功は、武士たちに多大な負担を強いた一方で、幕府は防衛戦であったために新たな領土を獲得できず、十分な恩賞を与えることができませんでした。季長のように直談判で権利を勝ち取れた例は極めて稀であり、多くの御家人は恩賞不足から困窮し、幕府への不満を強めていきました。この不満と徳政令の失敗が、後の後醍醐天皇による倒幕運動や、有力御家人の離反、ひいては鎌倉幕府の滅亡を招く一因となったのです。